グレート・ギャツビー

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F・スコット・フィッツジェラルド つぶあん訳

"The Great Gatsby" F. Scott Fitzgerald 1925

それでは黄金の帽子を被ろう、もしもそれで彼女が喜ぶならば;

若しも君が高く跳べるなら、彼女のために高く跳ぼう

彼女が、こう叫ぶまで。

「恋人よ、黄金の帽子を被り、高く跳ぶ恋人よ ― 君を私のものにしなくては!」トーマス・パーク・ダンヴィリエ

第一章

僕がもっと若くて、今よりもずっと傷つきやすかった時分に、僕の父がしてくれた忠告を、僕は何かにつけて心の中に何度も繰り返し思い出している。

「誰かを批判したいような気分になったときはね、」と、彼は僕に云った。「君が幾つか持っている有利なところを、この世界の誰もが持っているわけではないんだなって、ただ思い出すようにするんだよ。」

彼はそれ以上、何も云わなかったけれど、僕らはいつだって控えめな流儀で普通じゃない程に判り合うことができたから、僕は彼が何か素晴らしいことを云っているのだということは理解していた。その結果、僕はあらゆる場面での判断を差し控えるようになり、その習慣は、僕にいくつもの変わった性格を齎らすと同時に、僕を少なからず退屈し切った連中の犠牲にすることにもなった。普通じゃない精神というものは、その資質の深みにおいて、普通の人々の中に同じ性質が現れると素早く嗅ぎ付けて取り入ってくるものだから、大学時代には僕は、不当なことに、政治家みたいな奴だなんて批判されたりしたものである。というのも僕は、よく知らない荒々しい連中の秘密の嘆きの餌食にすぐになっていたからだ。そういう告白というものは、いつだって予測不可能だった―親しげな告白がこれから始まるというあの見逃せない兆候が水平線に震えていることに気づくと、僕はしばしば眠っている振りをしたり、何か忙しいような振りをしたり、もしくは気まぐれに敵意を見せたりしたものだ;若者の親密な告白と云うものは、あるいは少なくとも、それを語る彼らの口調というものは、どうせ何処かからの借りものであるし、明らかに、よくある抑圧によって歪められている。判断を差し控えることは、終わらない希望みたいなものである。僕はやはり思うのだけれども、僕の父が偉そうに云っていて、僕が今ここに偉そうに繰り返すことになるけれども、人の基本的な品位みたいなものは生まれながらにして不公平に振り分けられるのであって、そのことを忘れてしまったら、何かを見落としてしまうのではないかと、今でも少し恐ろしくなってしまう。

そうして、こんな風に僕の我慢強さを自慢した後で、僕はやはりそれにも限界があることを認めざるを得ない。品行というものは固い岩の上に築き上げられていたり、濡れた沼地の上にあったりもするだろうけれど、ある所を超えてしまってからは、僕はもうそれが何の上に築かれていても構わないという気になっていた。去年の秋に東部から帰ってきた僕はこの世界が制服を着て永遠に道徳的な敬意を払っていて欲しいような気分になっていた;僕はもうあの人の心を覗き込む特権を持った視線による暴動のような詮索は要らない。ただギャツビーだけが、この本に彼の名前を与えた男だけれども、僕のこういう反感から外れたところにいた―ギャツビー、僕のまっさらな軽蔑のすべてを体現したような男。若しも個性というものが一続きの途切れのない成功した素振りだとしたら、彼には何かしら豪華なところがあって、まるで何千マイルも離れた地震を計測するあの精巧な装置の一つのように、人生の約束の為の何か高められた感受性を持っていた。この鋭敏さは"創造的な気質"とか呼ばれているあの軽々しい感じやすさとはまったく違うものだった―これは希望のための並外れた贈り物であり、僕が他の誰にも見出すことがなかったし、これからも二度と見つけることは出来ないのであろう、空想を遥かに夢む心情だった。いや、違う―ギャツビーは最後には何もかもを実現させたのだ。これはギャツビーの為に祈られた物語であり、彼の夢の目覚めの最中に浮かび上がって来た醜い塵芥のせいで、僕は人々の実を結ぶことのない悲しみや、束の間得意気になってしまう喜びへの興味を、しばらくの間閉ざすことになったのである。

僕の家族は西部の真ん中に位置するこの街において、それなりに裕福な家庭として三世代に渡ってその名を馳せている。キャラウェイというのは何らかの氏族の家柄で、バックルーの貴族たちの末裔であるといった伝統を持っているけれど、僕の家系の実際の創始者は僕の祖父の兄弟で、此処に51年にやってきて、替え玉を市民戦争に送り込み、金物類の卸売り業を始めたのだが、今日でも僕の父がそれを続けている。

僕はこの大叔父を観たことはなかったけれど、彼に似ていたのだと思う ― 僕の父の事務所に掛かっていた、いささか強面の肖像画をじっくりと観て、そう想像していたのである。僕がニュー・ヘイブンを1915年に卒業したのは、父の卒業のちょうど四半世紀後の事で、少し経つとあの大戦争と呼ばれている遅れて来たゲルマン民族の大移動に参加した。この逆襲を存分に味わったので、戻ってきても落ち着けなかった。中東部は今や世界の温かい中心というのではなくて、打ち棄てられた宇宙の末端みたいに思えた ― だから東部に行って、証券取引を勉強しようと決めた。僕が知っていた人は全員証券取引に係っていたし、独身男のもう一人くらい養えると思った。僕の叔母さんと叔父さんは皆集まって、予備校でも選ぶように話し合った挙句、とても厳めしく、煮え切らないような表情を浮かべながら、最後にこう云った。「まあ、良いんじゃないの。」父は僕を一年間資金援助することに同意し、幾つかの遅れを経て僕が東部に着き、永遠に此処にいることになると思ったのは、22年の春のことだった。

真っ先にすべきことは街の中に部屋を探すことだったけれど、季節は暖かく、広い庭と友好的な木々の繁れる田舎を離れたばかりだったから、事務所の若い男が郊外の住宅地の家を一緒に借りないかと持ちかけて来たとき、それは素晴らしい提案であるように思えた。彼が見つけた家は、風雨に晒された月80ドルの安手の平屋だったけれど、会社が彼をワシントンに赴任させたので、結局は僕一人で棲む事になった。僕は犬を飼った ― 少なくとも彼が逃げるまでの何日かは僕が飼い主だった ― それから古いダッジ車を手に入れ、フィンランド人の家政婦を雇い、彼女が僕のベッドや朝食を用意し、電気暖房機の前で、フィンランド語のありがたいお祈りを呟いてくれるようになった。

一日かそこらは孤独だったけれど、ある朝、僕よりも後でやってきた男が、路上で僕を引き留めた。

「ウェスト・エッグの街へはどう行くのでしょうか?」彼は頼りなさそうに尋ねた。

僕は彼に教えてやった。そうして歩き始めた時にはもう僕は孤独でなくなっていた。僕は道案内であり、開拓者であり、先住民でもある。彼は僕に、さり気ない流儀で、隣人としての自由を授けてくれたのである。

そうして陽光と弾けるように成長してゆく素晴らしい木々の緑の中で、物事は映画の早回しのように進んでゆき、僕は人生がもう一度夏と共に始まるのだというあの懐かしい確信を持つようになっていた。

一つには、読むべき本がたくさんあったし、若々しい息吹から、沢山の良き健康をもぎ取っておきたい。僕は1ダースばかりの預金や借財や投資信託に関する本を購い、それらは僕の本棚に赤や金色の造幣所で刷ったばかりの新しいお札のように並び、ミダスやモーガンやマエケナスだけが知っていた輝かしい秘密を解き明かすことを約束していた。それに僕はそれに並行して沢山の本を読む強い意思も持っていた。僕は大学時代には寧ろ文学的だった ― ある年には堅苦しい判り切った内容の論説を「イエール・ニュース」に連載していたこともある。 ― それで今になって僕はそういうものをもう一度人生に持ち込んであのあらゆる専門家の中で最も使えない「幅広い見識を持った男」というやつに再びなろうとしていた。これはただの警句というわけではないのだけれども ― 結局のところ、人生と云うものは、ただ一つの窓から眺めたほうが、ずっと成功しているように観えるものだ。

僕が北アメリカの中でも最も奇怪なコミュニティに家を借りることになったのは、何と云うか偶然みたいなものだった。その場所はニュー・ヨークの東側に沿って伸びている、あの細くて騒々しい島の中にある − そうしてそこでは、他にも幾つか自然の珍奇な特徴があるけれど、二つの島がとても妙な配置になっている。

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